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火の顔見に行ってきました!

 

北川拓実くん主演の火の顔を観劇した感想を長々と書きたいな〜って思います。

ちなみに私が見た公演はキャストAの方々でした!1回しか観劇出来ていないのでセリフとかはニュアンスでしか覚えてないけど、、

 

この舞台は見てから考えることが多すぎて気がつけば2週間経ってたんだけど、もう3ヶ月くらい前に見たのではないかってくらいこの2週間で沢山沢山考えたなぁ

 

まだ何もまとまってないし何もまとめてない文をこれから書くけど、とりあえず文字に起こしたい

 

 

1番考えたのはコドモとオトナの違いかなぁ

 

クルトとオルガの親(オトナ)への嫌悪感みたいなものが私も共感する部分があって、世間的にはもう私は大人の年齢なんだけどまだまだ私も思春期だなって思いました

 

今回の火の顔のパンフレットで演出家の深作健太さんの言葉で、

 

いつの時代も、ずっと<オトナ>は<コドモ>を怖がってきた。

 

と書かれていて、子どもが大人を怖がることは普段の生活で多々あるけども

オトナがコドモを怖がるって表現が、何だかハッと思うことがあるというか、

怖いからこその「会話」ってあるものだなぁって思った

 

劇の中でお父さんがクルトに、スポーツをしたらどうだ?サッカーはどうだ?とか勧めたり、オルガに具合悪いのか?とか聞いたりしてたけど、オトナはコドモに言葉で確認して安心をしたいのかなって思った

 

自分の子供が心の中で何を思っているのかが怖くて安心が欲しくて表面的なことを聞いてしまうんかなと

 

だからお父さんはパウルみたいな分かりやすい人の方が安心するんだと思う

 

サッカーを楽しめたり、お酒飲んで酔っ払ったり、

 

何考えてるか分からない自分の子よりも、分かりやすく言葉や態度に出してる人と接してることで自分はこの人を理解してるって錯覚に陥ってるのかなと

そしてそれは安心に繋がるものなのかなと...。

 

 

 

 

 

個人的に心に残ったなげかけは

 

爆弾を作ったり放火をしているクルトを知って

(クルトはベッドの上に立ってゆらゆらしてるんだけど)

お父さん達に向かってお母さんが

 

私間違ってないよね?

 

って大声で聞いてたセリフがあったんだけど、

 

この質問ってめちゃくちゃずるい

 

すごく私の個人的な話になるんだけど

私の歳の離れた姉は世間一般的に言うと

「不良」って呼ばれる分類で中高生時代生きてまして

 

まだ幼稚園とか小学生低学年の私に向かって、お母さんが何か間違ってるの?

ってすごく聞かれた記憶がある

 

今考えてもそんなん知らん

正しい育て方間違った育て方があるとは思わないし

 

でも間違ってないよって言葉が欲しくて聞いてるんだろうし、その言葉を聞いて安心したいんだなって思う

 

 

みんな安心を得たいんよな、それは分かる

 

 

 

だから劇中そのなげかけの言葉が聞こえてるクルトを考えるとめちゃくちゃ胸が締め付けられた

 

私は自分に対してその言葉を誰かに聞いてるとしたら自分を全否定されてる気持ちになる

 

 

この劇中でオトナはコドモが何を考えてるのかどう接するのが良いのか分からなくなってしまっていたんだけど、オトナだってコドモの時間を過ごしていたはずなのに不思議よな

 

まぁ人によって考え方はそれぞれだけど

少なくとも子供の時に抱いてた葛藤とかはあったはずなわけで、

 

もしかしたらオトナになったらコドモの頃の気持ちを忘れてしまうのかなぁとか

一昨日に見た夢みたいに覚えてるような、覚えてないようなって感覚なのかなぁって、

 

コドモの言っていること、考えていることが理解できなくなったらオトナになったことなんではないだろうかなど考えたりするなどなど、など

 

コドモとオトナの境界線はハッキリあるものではないけど、コドモが怖くなったらオトナになったってことなのかもとか

 

大人への嫌悪感が無くなった時にオトナになるのかなとか

 

色々オトナとコドモを区別するものを考えたりしてた、答えは見つかんないけど。

 

 

 

 

 

 

あとはクルトの生き方についても考えたりしてた

 

クルトは生きることすらに葛藤を感じるているって勝手に感じたんだけど、

クルトにとって「火」が生きることへの正解だったのかなって思った

 

クルトは心の中ですごく熱い火を燃やしてるよね

クルトが感情的に物事を語ってる時の照明と音楽ですごくそれを感じた

そんでそれが外界に飛び火したんだなって感じた

 

心の火を飛び火させた結果が爆弾作りとか放火なのかなって(私はそう感じた

 

この劇で火の描写めちゃくちゃ美しかったのが印象的

 

暗闇の中のマッチを擦って現れた小さな火がすごく綺麗だったし、

 

工場の放火の時とかすごく爽快で美しかったな

 

余談ですが、私はこの火の顔で火を見ることにハマってアロマキャンドルにハマりました(まじの余談)

 

火の描写が綺麗だったから実質的にクルトの心も美しく感じた

 

「火」ってゆう自分にとっての人生の正解が見つかっているクルトが正直羨ましい

 

 

1番美しかったって感じたシーンが

クルトとオルガが金槌と鉄パイプを持って両親の部屋に向かう時

 

何か今人生で抱いてるしがらみを断ち切りに行くんだなって思った

 

世は悪と捉えてることもこの劇では悪だと感じなかったし美しかった。

 

 

クルトの熱い言葉で

 

 

他人に影響を与えることで自分の存在を確認する

そんな考えはゴミだ、1人になれ

(ごめんなさいめっちゃニュアンスでしか覚えてない)

 

 

って叫んでいるところがあるんだけど(これ本当に1番心に残った場面なのにニュアンスでしか覚えてないの悔しい)

 

これ、めっちゃ、それ(何が何?)

 

 

私知り合いの中で、とにかく他人を諭すことによって自分に浸ってるような人がいるんだけど(めっちゃ失礼な言い方になってしまった)

 

その人と話してる時は、自分の探してた答えが見つかったような気がしてたんだけど

この劇でこのクルトの言葉を聞いて、その今までの会話がめちゃくちゃ気持ち悪く感じてしまったんだよね

 

あ、この人もしかして自分が私に影響を与えることで存在を確認してるのかもって

 

まぁ、私の話は置いといて。

 

 

哲学の話になるけど(多分ずっと哲学の話してるのかもだけど)

 

デカルトさん曰く、

 

信じていた人に裏切られたとか確かだった情報が嘘だったとか何を信じたら良いのか分からなくなる時に絶対確実なものが欲しくなるのが人間なわけで、(これ最初の方にオトナがコドモに確認して安心したいみたいなのもこのことに繋がるのかな)

 

そしてその絶対確実は、疑う余地がないことを指すらしいです

 

だから目の前にあるモノヒトはもしかしたら夢かもしれない、幻かもしれないって疑う余地があるから絶対確実ではない

だけども今こうして疑うってことは、自分は考えている、自分が考えている!疑うことを考えているということは疑う余地はない

「私は考える、ゆえにわたしは存在する」

ことは絶対確実である

 

って本で読んだんだけどこれはクルトの生き方の中の1つ要素としてあるのかなって、クルトの言葉を聞いたときに感じました

 

実際、人との関係だけで自分の存在を確認するってことはすごく不確かなことだなって思う

 

妄想代理人

 

ってアニメがあるんだけどそれの8話でめっちゃその不確かさを感じる

 

8話は1番好きなんだけど他の話とほとんど繋がってないので1〜7話見なくてもいけるので良かったら見てね(誰もこのブログ読んでない可能性が高い)

 

まぁ、そんなこんなで自分の思考する時間はこの世で最も確かにあることなので、何かを疑って不安になったとき自分の考えだけは信じてあげたいなって思う

 

自分で自分が分からない時が1番辛いので。

 

 

もっと色々考えたり感じたことがあったんだけど、書いてる間に何を書こうか忘れてしまったのでまた思い出したら文字におこしたいなって思った(全然オルガの話してないしな)

 

私はまだ大人になれないこどもなので、この自分の状況でこの舞台を観劇できて本当に良かったなって思いました

 

 

この舞台はその時の自分の年齢によって共感する部分とか、逆に分からない部分とか変わってくると思う

 

今回私はお母さんがなぜ自分が間違ってないかって聞くところの気持ちは分からなくはないけどやっぱりまだ分からない

 

でもこの舞台を一緒に見ていた私の母はすごくその場面に共感したのかもしれないし

 

クルトとオルガの人生の葛藤と絶望感は私も(同じものでは無いかもだけど)あるし

 

 

また数年後にこの舞台を見て今書いてる気持ちとの変化とかを感じたいなぁって思える舞台でした(欲を言うなら毎年見たい)

 

素敵な舞台に出会えた人生で良かった!!

 

 

火の顔見た方の考えをすごく聞きたいので誰か私とお話して下さい!以上!!!(多分また書きます)